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第4話 狼王から届いた招待状

last update publish date: 2026-10-10 13:45:16

第4話 狼王から届いた招待状

 銀狼の封蝋を見つめたまま、ミレイアはしばらく動けなかった。

 昨日、月神殿で自分の言葉を笑わなかった男。

 ノクシア王国国王、アルドリック・ノクス。

 その人物から、家を追い出された翌朝に正式な書状が届くなど、偶然にしては出来すぎている。

「こちらで、お読みになりますか?」

 使者の男が尋ねた。

 四十歳前後だろうか。黒い制服の胸元にはノクシア王家の銀狼紋が縫い取られている。立ち方も言葉遣いも隙がなく、ただの御者ではないことはすぐに分かった。

「いえ……でも、本当に私宛てなのですね」

「ミレイア・セレス様以外へお渡しするよう命じられてはおりません」

 念を押され、ミレイアは少し恥ずかしくなった。

「失礼しました。昨日までの私なら、国王陛下から手紙をいただく理由がありませんでしたので」

「昨日までではなく、昨日から理由ができたのでしょう」

 思いがけない返答だった。

 ミレイアは顔を上げたが、男は特に笑っていない。

 まるで天気の話でもするような顔で続ける。

「少なくとも、我が王はそう判断しております」

 その言葉だけで、胸の奥に妙な落ち着かなさが生まれた。

 必要とされた、と考えるには早い。

 昨日のアルドリックは、契約の不正を見抜ける可能性があるなら調べる価値があると言っていただけだ。

 それでも、父から「家に利益をもたらせない娘」と言われた翌朝に、他国の王から使者が来るという状況は、あまりに皮肉だった。

「お嬢様」

 後ろからデリックが遠慮がちに声をかける。

「せめて中でお読みになっては。朝露も冷えております」

 ミレイアは屋敷を振り返った。

 ついさっき、この敷居をまたいだ時には、もう中へ戻らないつもりだった。

 たった数歩しか離れていないのに、今さら戻るのは何となく嫌だった。

「ここで読みます」

 封筒の縁へ指をかけたところで、ふと止まる。

「開けても構いませんか?」

 使者が僅かに目を瞬いた。

「もちろんでございます」

「そうですよね」

 自分でも可笑しくなった。

 他人から手紙を渡される経験なら何度もある。なのに国王から届いたというだけで、開封にも許可が必要な気がしてしまう。

 封蝋を割る。

 中には厚手の便箋が一枚だけ入っていた。

 仰々しい挨拶が何枚も続くのかと思ったが、文章は驚くほど簡潔だった。

 ミレイア・セレス嬢。

 昨日の件について、改めて話をしたい。

 君が契約書から感じ取ったものについて、ノクシア王国には調べる価値があると考えている。

 もし現在の立場に問題がないのであれば、王都滞在中のノクシア使節館へ来てほしい。

 なお、これは命令ではない。

 断っても君に不利益は生じない。

 アルドリック・ノクス。

 ミレイアは最後まで読み、それからもう一度、最初から読み返した。

「短い……」

 思わず本音が漏れた。

 使者の口元がほんの少し動いた。

「陛下の書状としては、むしろ長いほうかと存じます」

「これで?」

「通常は三行で済ませようとなさいます」

「国王陛下ですよね?」

「その点については間違いございません」

 ミレイアは思わず笑いそうになった。

 昨日、大聖堂で見たアルドリックは、隙のない冷徹な王にしか見えなかった。だが手紙から伝わってくるのは、必要なこと以外を書くのが面倒なのではないかと疑いたくなるほどの簡潔さだ。

 それでも、最後の二行だけは妙に心へ残った。

 これは命令ではない。

 断っても不利益は生じない。

 国王という立場の人間が、伯爵家を追われたばかりの娘へ、わざわざそんなことを書く。

「使節館へ伺う場合、このまま馬車に乗ればよいのでしょうか」

「はい。ただし、すぐに決める必要はございません。陛下からは、お考えになる時間を取るようにとも申しつけられております」

「どれくらいですか?」

「半日でも一日でも」

 ミレイアは足元の旅行鞄を見た。

 一日考えるための宿すら、まだ決めていない。

 何だかその状況が可笑しくなってきた。

「では、今から伺います」

「よろしいのですか?」

「考える場所がありませんから」

 使者は一瞬だけ言葉を失ったようだった。

「……失礼ですが」

「はい」

「セレス伯爵家を出られた直後なのでしょうか」

 ミレイアは少し迷った。

 家の事情を他国の人間へ話すことに抵抗はある。

 だが旅行鞄を二つ抱え、朝から門前に立っていれば、隠したところで意味もない。

「追い出されました」

 淡々と言ったつもりだった。

 けれど、口にするとやはり胸の内側が少し痛む。

 使者は同情を口にしなかった。

 代わりに、ミレイアの旅行鞄へ手を伸ばす。

「では、荷物はこちらでお預かりします」

「自分で持てます」

「承知しております。しかし、ここから使節館までは我々の客人です」

「客人……」

 その言葉に慣れなくて、ミレイアは少し戸惑った。

「少なくとも馬車を降りるまでは、そう扱うよう命じられております」

 そこまで言われると断るほうが不自然だった。

「では、お願いします」

 旅行鞄を渡したところで、玄関から慌ただしい足音が聞こえた。

「姉さん!」

 ルイスだった。

 上着の釦を一つ掛け違えたまま駆けてくる。

「もう行ったと思った」

「行こうとしたら、手紙が届いたの」

 ルイスは黒い馬車を見て、すぐに銀狼の紋章へ気づいた。

「これ……昨日の王様の?」

「ええ」

「何の用?」

「私もこれから聞きに行くところ」

 ルイスの顔から、露骨に警戒が浮かぶ。

「大丈夫なの?」

「大丈夫だと思うわ」

「思う、って」

「少なくとも昨日、私を笑わなかった人よ」

「だからって信用していいとは限らないだろ」

 十六歳の弟に言われ、ミレイアは一瞬黙った。

 確かにその通りだった。

「あなた、時々とても正しいことを言うわね」

「時々って何だよ」

「褒めてる」

「絶対半分しか褒めてないだろ」

「昨日のお返し」

 ルイスは不満そうな顔をしたが、それ以上は言わなかった。

 代わりに声を落とす。

「本当に気をつけて。相手は国王だろ。姉さんが断れないことを言われるかもしれない」

「手紙には、断っても不利益はないと書いてあるわ」

「書いてあるのと、本当にそうなのは別だ」

 ミレイアは弟を見た。

 昨日までなら、もう少し楽観的な子だと思っていた。

 それだけ彼も、今回のことで大人たちを信用できなくなっているのかもしれない。

「分かった。嫌だと思ったら、ちゃんと断る」

「約束?」

「約束する」

 ルイスはようやく少しだけ安心したようだった。

「あと、金は使っていいからな」

「大事に使います」

「返さなくていい」

「それは無理」

「頑固」

「あなたに言われたくないわ」

 ミレイアは弟へ小さく笑いかけた。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 ほんの一瞬、昨日までの日常に戻ったような挨拶だった。

 けれど、今度は帰る家があるという意味ではない。

 それでも、「行ってらっしゃい」と送り出してくれる人が一人いるだけで、足取りは少し軽くなった。

 馬車の中は、外見ほど物々しくなかった。

 黒革張りの座席は広く、窓際には小さな保温瓶まで置かれている。

「こちらをどうぞ」

 向かいへ座った使者が、銀のカップへ温かい茶を注いだ。

「ありがとうございます」

 一口飲む。

 少し苦みのある北方茶だった。

 体が温まるにつれ、今さら緊張が戻ってくる。

「お名前を伺っても?」

「失礼いたしました。私はグレン・ハウザー。ノクシア王国第一近衛隊所属で、今回の使節団では陛下の護衛を務めております」

「近衛騎士の方だったのですね」

「御者ではございません」

「すみません」

「謝らなくて結構です。今日は御者台に乗っておりましたから」

 真面目な顔で言われると、どこまで冗談なのか分からない。

 ミレイアはカップを両手で包みながら尋ねた。

「アルドリック陛下は、なぜ私を?」

「その質問には、陛下ご本人からお答えいただくほうがよいでしょう」

「そうですよね」

「ただ一つだけ申し上げるなら、陛下は昨夜から契約法関係の資料を大量に取り寄せておられます」

「昨夜から?」

「はい。側近たちが少々迷惑そうな顔をしております」

 ミレイアは思わず目を瞬いた。

「陛下がご自身で調べているのですか?」

「ご自身でも調べますし、人にも調べさせます。気になることがあると、納得するまで止まりません」

「……少し怖いですね」

「非常に」

 即答だった。

 ミレイアはまた笑いそうになった。

 ノクシアの人間は、国王をもう少し恐れているのかと思っていた。

 少なくとも、このグレンという騎士は忠誠心と遠慮のなさを同時に持っているらしい。

 馬車が止まった。

 窓の外には、王都東区にあるノクシア使節館が見える。

 灰色の石壁と黒い屋根を持つ建物で、華美ではないが重厚だった。正門には二人の衛兵が立ち、その背後には雪山を描いたノクシアの旗が翻っている。

 グレンに案内されて中へ入る。

 廊下を進む間、何人もの人間とすれ違ったが、誰もミレイアを好奇の目でじろじろ見ることはなかった。

 それだけでも、昨日から他人の視線に疲れていた身にはありがたかった。

「こちらです」

 案内されたのは、思っていたより小さな応接室だった。

 王の執務室と聞けば豪奢な部屋を想像するが、置かれているのは大きな机と書棚、来客用の長椅子程度で、壁の一面には北方の地図が掛けられている。

 そして机の上には、本当に大量の書類が積まれていた。

「来たか」

 アルドリックが、その向こうから顔を上げた。

 昨日と同じ黒を基調とした服装だが、今日は儀礼用の外套を着ていない。襟元も少し緩く、昨日より年相応に見えた。

「お招きいただき、ありがとうございます」

 ミレイアが礼をすると、アルドリックは机から立ち上がった。

「座ってくれ。立ったままだと話しにくい」

「はい」

「荷物があると聞いた」

 あまりに早く言われて、ミレイアはグレンを見る。

 彼は何も言わず壁際へ下がっている。

「もうお聞きになったのですか」

「玄関で見れば分かる」

「そうでした」

「それで?」

 アルドリックは向かいへ座る。

「家を出たのか」

「出たというより、出されました」

「昨日の件で?」

「それだけではありません。私がローデン家からの補償金を受け取らないと言ったことも、父は気に入らなかったようです」

「なるほど」

 それ以上、同情めいたことは言わなかった。

 ミレイアは不思議と、そのほうが楽だった。

「陛下。手紙に、私が契約書から感じ取ったものについて調べたいとありましたが」

「ああ」

「私は、まだあれが何なのか分かりません」

「分かっている」

「それでも、お呼びになったのですか?」

「分からないから呼んだ」

 アルドリックは机の上から数枚の書類を取り、こちらへ差し出した。

「昨日の破棄契約とは別の契約書だ。ノクシアで過去に問題になった番契約の写しを用意した」

 ミレイアは手を伸ばしかけて、止めた。

「触れても?」

「そのために用意した」

 最初の一枚へ指を置く。

 何も聞こえない。

 ただの羊皮紙の手触りだけだった。

「どうだ」

「何も感じません」

「次」

 二枚目。

 これも何もない。

 三枚目へ触れた瞬間、指先がひやりとした。

 直後、耳の奥で低い金属音が鳴った。

「……これ」

 アルドリックの目が鋭くなる。

「何か聞こえるのか?」

「はい。昨日ほど強くありませんが……ここから」

 ミレイアは契約書の一部分を指した。

 婚姻同意欄。

「この署名のあたりから、嫌な音がします」

「他には?」

「待ってください」

 紙面をなぞる。

 今度は契約日付の近くで、別の感覚があった。

「ここもです」

「二か所か」

「はい」

 アルドリックはグレンへ手を差し出した。

「記録を」

「陛下」

「いい」

 グレンが一冊の薄い資料を渡す。

 アルドリックはそれを開き、ミレイアの前へ置いた。

「この契約は十二年前、ノクシア国内で裁判になった。妻側が婚姻強制を訴えた事件だ」

 ミレイアは記録へ目を落とす。

 そこには短く、調査結果が記載されていた。

 署名は本人のものではない。

 契約日付も後から改竄されていた。

 ミレイアの背筋に冷たいものが走る。

「二か所……」

「ああ。君が指した場所と一致する」

「偶然かもしれません」

「だから、もう一枚試す」

 次の契約書を渡される。

 触れる。

 今度は三か所。

 血印。

 証人欄。

 契約解除条件。

 結果を伝えると、アルドリックは確認資料を開いた。

 三か所とも、過去に不正が認定されている。

「……そんな」

 ミレイアは自分の指を見る。

 何も変わっていない。

 狼の爪が生えたわけでも、光ったわけでもない。

 それなのに、この指で紙に触れると、嘘の痕跡が分かる。

「陛下」

「何だ」

「私には、能力なんてありません」

 アルドリックは少しだけ眉を上げた。

「今、それを言うのか」

「だって、私は獣化もできません。治癒も、強化も、感知も何もなくて、ずっと無能力だと言われてきました」

「それは、君が今まで知られている能力を持っていなかったというだけだろう」

「でも」

「ミレイア」

 初めて名前だけを呼ばれた。

 それだけで、言葉が止まる。

「君は昨日、自分で三つの不正を見つけた。そして今、過去に不正が確定している契約を二件、何の予備知識もなく正確に指摘した」

「……はい」

「それを能力と呼ばないなら、何と呼ぶ?」

 答えられなかった。

 アルドリックは背もたれへ体を預け、静かに続ける。

「俺は、君の才能を買いたい」

 ミレイアは目を見開いた。

「買う?」

「言い方が悪かったか」

「少しだけ」

「では訂正する。君の能力に、仕事として対価を払いたい」

 その言葉は、あまりにも予想外だった。

「仕事……ですか」

「ノクシアには、番契約に関する争いが多い。貴族だけではない。平民同士でも、家同士の利害でも、契約を巡る問題は起きる。もし君の力が本物なら、使い道はいくらでもある」

「ですが私は、他国の伯爵令嬢です」

「今朝、その家を出たのだろう?」

「それはそうですが」

「なら身分の問題は、少なくとも昨日より単純になった」

 言っていることは合理的だ。

 合理的すぎて、ついていけない。

「待ってください。陛下は私をノクシアへ連れていくおつもりなのですか?」

「可能なら」

「可能なら、ではなく」

「嫌なら断っていい」

「そういう問題ではなくて……」

 ミレイアは額へ手を当てた。

 昨日、婚約を破棄された。

 今朝、家を追い出された。

 そして今、他国の王から「能力を買いたいから国へ来ないか」と言われている。

 人生というものは、一度転がり始めると速度を考えてくれないらしい。

「私は、何もできないと思っていました」

 気づけば、そんな言葉が出ていた。

「ずっとです。獣化できないと分かってから、家でも社交界でもそう言われてきました。カイラスも最初は気にしないと言ってくれましたが、結局、最後にはそれが理由の一つになりました」

 口にすると少し苦い。

「ですから、急に才能があると言われても、すぐには信じられません」

 アルドリックは、しばらく黙っていた。

 慰める言葉を探しているようには見えない。

 むしろ、どう説明すれば最短で伝わるかを考えている顔だった。

「君が信じる必要はない」

「え?」

「少なくとも今は」

 アルドリックは、先ほどの契約書を指先で軽く叩いた。

「能力があるかどうかは、感情ではなく結果で確かめればいい」

「結果で?」

「ノクシアへ来い」

 その言葉は、命令というより提案だった。

「君の力が本物かどうか、俺の国で確かめればいい。使えないと分かれば、それまでだ。その場合でも帰国費用はこちらで出す」

「ずいぶん簡単におっしゃいますね」

「複雑に言えば安心するのか?」

「……しません」

「なら簡単でいい」

 少しだけ、可笑しかった。

 昨日からずっと、誰もがミレイアの人生を複雑にした。

 番だから。

 家のためだから。

 能力がないから。

 世間がどう見るから。

 ところがこの男だけは、驚くほど単純に言う。

 分からないなら確かめろ。

 嫌なら断れ。

 価値があるなら対価を払う。

「一つ、聞いてもよろしいですか」

「いい」

「陛下は、なぜそこまで番契約の不正に関心があるのですか?」

 アルドリックの表情が、ほんの少し変わった。

 先ほどまでの実務的な顔から、何か遠いものを見るような目になる。

「個人的な理由がある」

「それは――」

「今は話したくない」

 はっきり言われ、ミレイアは口を閉じた。

「すみません」

「謝るな。聞かれて困るなら、最初から質問を許可しない」

 この人は、本当に何でも区切って考えるのだなと思う。

 その潔さが、少し羨ましかった。

「それで、どうする?」

 ミレイアはすぐには答えなかった。

 窓の外へ目を向ける。

 王都の屋根が朝日に照らされている。

 生まれてからずっと、この街で暮らしてきた。

 ここを離れることなど、一度も本気で考えたことはない。

 ノクシアは北方の大国。

 冬は長く、狼族の中でも能力を重んじる土地だと聞く。

 そこへ、獣化すらできない自分が行く。

 怖くないはずがなかった。

 けれど。

 この王都に残ったとして、何があるだろう。

 父の家には戻れない。

 カイラスとの関係は終わった。

 自分で仕事を探すにしても、棄て番になるかもしれない伯爵令嬢を進んで雇う家は多くないだろう。

 そして何より。

 自分の中に、本当に何かがあるのなら。

 それを確かめたい。

「陛下」

「何だ」

「もし私がノクシアへ行って、何の役にも立たなかったら?」

「帰ればいい」

「それだけですか?」

「それ以外に何がある」

「失望なさるとか」

「するかもしれない」

 即答され、ミレイアは思わず彼を見る。

「そこは否定してくださらないのですね」

「嘘をついてどうする」

「確かにそうですけれど」

「ただ、失望したからといって君を責める理由にはならない。俺が可能性があると判断して呼ぶのだから、見込み違いなら俺の責任だ」

 その考え方は、ミレイアには新鮮だった。

 失敗すれば、いつも自分が悪いと思ってきた。

 能力がないのも。

 期待に応えられないのも。

 カイラスに選ばれなかったことさえ、どこかで自分が足りなかったからだと考えていた。

「……行きます」

 言葉にした瞬間、自分でも驚くほど心が静かだった。

 アルドリックは大げさに喜ぶこともなく、ただ一度頷いた。

「分かった」

「それだけですか?」

「何を期待している?」

「いえ、何でもありません」

 少しくらい「歓迎する」と言ってくれてもよいのではないかと思ったが、期待した自分が悪い気もした。

 するとアルドリックは机の上の書類を整えながら言った。

「歓迎する」

「……聞こえていたのですか?」

「顔に出ていた」

 恥ずかしくなって頬が熱くなる。

「今のは忘れてください」

「難しい」

「陛下」

「冗談だ」

 昨日に続き、また分かりにくい冗談だった。

 けれど、ミレイアは少し笑った。

 アルドリックも、ほんの僅かに口元を緩める。

 その空気を破ったのは、扉を叩く音だった。

「入れ」

 グレンとは別の若い騎士が入室する。

 表情が硬い。

「陛下、至急ご報告がございます」

「言え」

 騎士は一瞬ミレイアを見た。

「セレス嬢に関係する件でもございます」

 アルドリックの目が細くなる。

「なら、ここでいい」

「はい。先ほど王都北門より連絡が入りました。ミレイア・セレス嬢に対し、出国制限の申請が提出されております」

 ミレイアは意味を理解するまで数秒かかった。

「出国……制限?」

「申請者はローデン侯爵家です」

 胸の奥が冷たくなる。

 カイラスの家。

「理由は?」

 アルドリックが尋ねる。

「婚約破棄契約に関する重要関係者であり、調査終了まで国外へ出ることは認められない、と」

「神殿ではなくローデン家が?」

「はい」

 アルドリックの顔から、先ほどまでの僅かな柔らかさが消えた。

「ずいぶん手回しが早いな」

 ミレイアも同じことを思った。

 昨日、自分が契約書の不正を指摘した。

 今朝、家を追い出された。

 そしてもう、自分が国外へ出ることを止めようとする者がいる。

 偶然とは思えない。

「陛下」

「何だ」

「私は、ノクシアへ行けないのでしょうか」

 アルドリックは騎士から書類を受け取り、短く目を通した。

 そして、静かに紙を机へ置く。

「いや」

 灰青色の瞳に、冷たい光が宿った。

「むしろ、これで行く理由が一つ増えた」

 ミレイアは息を呑む。

 アルドリックは出国制限申請書を指先で押さえながら、低い声で続けた。

「君を国外へ出したくない者がいる。なら、そいつが何を恐れているのか確かめよう」

 昨日まで、ミレイアの世界は小さかった。

 家族と、カイラスと、王都の社交界。

 そのすべてを失ったと思っていた。

 けれど今、閉じたはずの扉の向こうに、見たこともない道が開き始めている。

 それがどこへ続くのかは分からない。

 ただ一つだけ確かなのは、その道を塞ごうとしている誰かが、すでに動き始めているということだった。

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